2010年12月20日

「事実は小説より奇なり」その12

過去とは成就された全体、かつて未来としてあったものを
乗り越えた全体であろう
           サン・テグジュペリ 『手帖』より
「事実は小説より奇なり」その12





明日までにはこれも終わらせたいので せっせと書かねば~! 汗


◆23歳~25歳  「ふたりで行った 横丁の風呂屋~音符オレンジ
 「神田川」にも似た新婚生活を 高円寺のアパートで過ごす。
 
 ときはまさに 激動の60年代後半から70年代初頭にかけてで
 夫は学生運動から労働運動へと 身を投じていた。
 
 新婚と云っても 甘い生活などは無縁で 二間のせまい
 アパートの部屋には 夜ごと「勉強会」と称して
 学生 労働者 オルガナイザーなど 活動家が集まっては
 夜を徹しての議論沸騰!
 
 しまいには大家さんのところへに 公安課刑事の聴き込みも
 入ったようで
 ある日 「娘が結婚してここに 入ることになったので
 退居してほしい」との通達が・・・。

 で 東京を離れてまた湘南の実家から 少し離れた辺鄙な
 ところにあったアパートへと転居した。
 
◆そのころには 下の弟もちょうど高校を卒業して 養父母のもと
 から東京に出て仕事に就いた頃だったと思う。

◆上の弟はすでに 大学の建築科を卒業したあと名古屋の
 建設会社で建築士として 働きはじめていた。
 

◆わたし27歳 夫から彼の両親の出生地である沖縄で 
 1、2年暮らしたいと とつぜん切り出される。

 1、2年だったら まっ いいか~ と
 復帰わずか十ヶ月後の1973年の3月に はるばる船旅で
 沖縄の地を踏む。
 
 その1、2年という期限も いつの間にか反故になりいまや
 38年間という わたしの人生の大半をこの地で暮し現在に
 至る。

◆1973年3月 わたしたちが沖縄に来るのと時を同じくして
 上の弟は 安定した職を捨て無期限で世界を放浪するという
 バックパッカーの旅に出た。
 
 4年という間 彼はこの地球上の大半を 身体で感じながら
 歩いて来たようだ。
 
 いまでは行くことのできない アフガン地方や南米まで・・・
 行く先々で 季節労働者として働きときには柔道を教えて
 次の国への渡航費用を稼いだという。

 旅の終わりは もちろん沖縄!

 ひげ面の彼が外国から わが家にたどり着いたとき 
 わたしは二人目の子を産んだばかりだった。
 まだ首のすわらない息子を 馴れない手つきで抱く若い頃の
 弟の写真がいまでも残っている。
 
 その後 長いこと会うこともなかったが かれが結婚をして
 3人の子の父となり 友人と共同経営の工務店をはじめたとは
 話しに聴いていた。
 
 それから8年の時間を経て 彼は自分の家族と信州の父を連れて
 わたしのもとを訪れてくれた。

 そのときすでに わたしの家族の方に 異変が起きていた。


と せっせと書いたが まだまだ書ききれない~ これから体育館へ~ぶーん 


今日も ありがとうございます。



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